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| 先日、熱海MOA美術館に尾形光琳「紅白梅図屏風(国宝)」を見に行った。関東地方に低気圧が近づき、大荒れとの予報が出ていたので、来場者も少なく、心おきなく時間をかけて見ることができた。 作品は思ったよりもくすんでいた。 一昨年の秋、根津美術館で修復された「燕子花図(国宝)」を見た折りの、輝いていた金箔が強く印象に残っている。 「紅白梅図」の金箔は金箔を模して、信じられないような技法で描いた。という新説もあるらしい。 尾形光琳の名を冠して琳派といわれるが、尾形光琳が大きな影響を受けた俵屋宗達、その友人で共同制作者の<本阿弥光悦>が琳派の祖と言ったほうがよいと思う。光琳の曾祖父・道柏の妻は本阿弥光悦の姉で、縁戚に当たる。 光悦は、徳川家康から京都北部の広大な鷹ヶ峰村を与えられ、京都市中から漆、筆工芸職人、書家たちを引き連れて移住し、現在で言うならば<光悦鷹ヶ峰村ワーク・ショップ>を開いたことになる。 徳川家康による、公家衆、経済的な実力を握っている京都町衆を抑えたいという策があったのだが。 この後、鷹ヶ峰村で、寛永の三筆といわれた、偉大な書家<光悦>を中心として、数々の、工芸、書、絵画の作品を創作することになる。 今年1月に、出光美術館で見た光悦の<新古今集散書屏風>は、現代美術などを超えたものがある。もし、日本語、日本文字が理解できなくても、偉大な作品として通用するであろう。 また、日本建築の代表とされる「桂離宮」も、光悦の薫陶を受けた八条宮初代智仁、二代目智忠によって建立された。 茶の千宗旦ほか、多くの文化人、芸術家がこの光悦の周りにいて江戸文化、いや日本文化の華を咲かせたのだ。 しかし、数々の作品を一緒に創った俵屋宗達は、京都市中に扇屋を構えていたので、鷹ヶ峰村には住んでいない。電話、ファックスがない時代、どういうふうにコミュニケーションを取ったのだろう。当然、直接会って話もしただろうが、数え切れない芸術作品のような文の往来があったのだろう。 光琳は、宗達の作品を模して描いている。その作品を琳派の最後の巨匠といわれる酒井抱一も模している。また光琳には弟の乾山(私の最も愛する琳派の作家)がいて、彼との共同作品も多く、たくさんの名品ある。 私の「雪シリーズ」をニューヨークの友人たちは「墨絵のようだ」と言った。しかし私自身は、琳派のような、きらびやかさの中に優雅さをたたえた作品を、撮りたいと願っている。 私の今年の年賀状、WEB年賀は、宗達が描いた『風神雷神』を光琳が模したものに、私の逗子の空の画像を合成して使用した。何故かはリンクしているのでそれを見て分かってほしい。 また、この文を書いている最中にWEBで注文していた(『乾山晩愁』葉室隣著 新人物往来社刊)が届いた。表題の乾山の他に、長谷川等伯など4人の絵師の物語があり、読むのが楽しみだ。 いい意味での世襲に近い技法の継続であり、文化の継承である。小学生の時から「個性を尊重します」という教師が多い現在の図画・工作教育では、芸術家は育たないと私は思う。個性とは、豊富な基礎教育の上に開花するものである。音楽も然りである。 この鷹ヶ峰村のような、偉大な写真のワークショップがニューヨークにもあった。私のスタジオのあったビルの、3軒先のビルの中に、ロシア生まれのアートディレクター<アレクセイ・ブロドヴィッチ(Alexey Brodovitch)のワークショップ>である。 アレクセイが光悦的な存在であり、彼のまわりに、故リチャード・アベドン、故ダイアン・アーバス、故アービング・ペンなどの偉大な写真家が青年期に教えを受けたという。 残念なことに、私が在ニューヨーク時代にはなくなっていた。 これらの琳派の作品を一堂に集めると、世界に誇る「琳派美術館」が出来るのだが-- 箱ばかり建てるのではなく。…… |
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