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| 昨年春に、逗子の海岸が見渡せる家に越した。 秋までは、引越後の片付け、家の修復などにかかりきりだったので海岸には行けなかった。夏の間、海岸には商業主義に犯された海の家が建ち並び、ゆっくりと歩けたものではない。 海岸は東西を山に挟まれ、約1000メートルの海岸でほぼ半円に近い弧を描いている。潮の満ち引きによってこの海岸の長さは変化する。快晴の日には江ノ島と重なって富士山が大きく見え、ある時期には富士山頂に陽が沈む。 秋になると、海の家は取り払われ、散歩をする人、犬を連れて散歩をする人、ジョギングをする人、夕刻には地元の中、高生が部活を兼ねた運動をしている。そのせいか、毎年行われる逗子市駅伝大会はこの高校がいつも優勝する。真剣に走っている様子がこのWEBサイト「デジタル写真記」に3点ほどある。 海では、ヨット部の徒が、何隻もの練習用ヨットで連なっているのは微笑ましい。これも前記サイトの中にある。 海岸線が視界から消えるまで続いている浜として、1972年にニューヨークから行ったマサチューセッツ州のケープ・コッドは特に印象に残っている。大西洋側の海岸線が約40キロの砂浜がつづき、ケープ・コッド海岸線国立公園は約60キロ以上に及ぶ。 ケープ・コッドには、故アーサー・トウイ(Arthur Tuohy)、友人のジェフ・二木と3人で行った。私もジェフも運転ができないので、アーサーが往復約850キロを運転し、ケープ・コッドの尖端の町、プロビンスタウンに一泊した。 海岸線に立った我々の前に広がる大西洋は、おそろしく広かった。浜は3月の週末というのに人は少なかった。上の画像はアーサーの後ろ姿である。なにか寂しそうに見えるが、画像にポインターを合わせると、ちょっと違うアングルでそうでもなくなる。これが撮るときのトリミングのマジックである。 この画像と、ここでの波の画像は、展覧会『水平線』で大きく伸ばして会場のメインに展示した。 アーサーは、私がニューヨークに移住する前に勤めていた広告代理店のニューヨーク制作部長だった。1970年に彼とアーディレクターが東京支社に来た。当時、世界一周線就航をはじめたJALのための広告用画像を制作するための来日だった。 彼は大変な日本通で、その頃に「わび・さび」の正確な意味を知っていたし、「私の一番好きな映画は『雨月物語』です」と、あまり日本を勉強していない私を驚かせた。 私は日本のプロデューサーとして写真家「浜谷浩」氏を選んだり、京都での撮影をサポートした。彼等と私の間を通訳してくれたのが、まだ写真家の助手をしていたジェフ・二木だった。 文を書く前に、「Arthur Tuohy」と検索したら、1970年3月のアメリカ『TVガイド』の記事がトップに出てきた。当時、大流行していたミュージカルHairの"Let The Sun Shine In"を、有名人がスタジオに集まって歌う「人種偏見をなくそう」という公共広告の制作紹介記事だった。広告は数々の賞を獲得した。 彼は広告代理店を辞めた後、マンハッタンに"La Maison de Japonese"というヌーベル・キュイジーヌ日本料理レストランを開き大成功を収めた。 アーサーが、私がニューヨークで写真家として独立したときプレゼントにくれた、浜谷浩氏の写真集『アメリカ』と、ケープ・コッドを大型カメラ8x10で、静かな光景を撮影したジョール・マイヤーヴィッツ(Joel Meyerowitz)の写真集『ケープ・ライト(Cape Light)』は、私が日本に帰国した際、何故か一箱紛失した郵送物の中にふくまれていた。どちらも大切なケープ・コッドの思い出なのに、私の手元にはない。 この原稿を書いていながら、窓から海岸を見ると建設中の海の小屋が見え、いまいましい思いである。 |
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