![]() |
|||||||||
![]() |
|||||||||
|
|
|||||||||
| まだ見ていない建造物の中で、何とか見て撮影したいトップ5に入るのがインド北部・アーグラにある<タージ・マハール>だ。 1983年に世界文化遺産に登録され、建物の歴史、建造方法などテレビ、雑誌などに紹介されているので私よりもよくご存知だと思う。 驚くのはこの総大理石の白いイスラーム文化建物が、皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルのために22年間をかけて造られたお墓廟だということだ。 上の画像は義父が1956年に、インドで開かれたアジア・アフリカ作家会議に出席した時に撮ったものだ。この頃は現在とちがい観光客も少なく人影もまばらだ。 下の画像は壁紙用の画像を無料提供してる<壁紙リンク>からダウンロードした、夕陽を反射して薄赤い<タージ・マール>の前にも人々が写っているが、さすがに素晴らしい<壁紙リンク>の画像、観光客で混雑はしていない。 この墓廟が建設された1632年から48年までの間、日本では長崎に出島を設置、島原の乱など江戸時代初期鎖国を始め、外国文化を排除することを強め始めた時代だ。 <タージ・マハール>の建設には、皇帝はペルシャ、アラブ、ヨーロッパから2万人の職人を集めて建造したといわれている。文化のハイブリットがいかに大切なものかわかる。 二度ほど訪ねたことがある、中国・北京市の<紫禁城(現在は故宮博物館−世界遺産)>も基は元朝(モンゴル)がアラブ人ら知恵、技術を使ったハイブリット文化の建物だ。この夏の五輪のために修理がなされ一段とピカピカになったといわれる。 東京都庭園美術館で催された<建築の記憶―写真と建築の近現化>展、「建築史学の構築と写真―伊東忠太の業績と写真の関係より」で<紫禁城>を今から100年以上前(1901年)に、画像におさめ、克明な実測記録を残した紫禁城調査隊の展示があった。 小川一眞が中心となって撮った画像には、傷んでいる建物、階段横、広場に雑草が繁り、浮浪者が寝そべったりして現在では想像もできない。この頃<紫禁城>は、清朝の義和団の乱の結果、日本も一員である八カ国連合軍に占領されていたのでこの有様だったのではと思う。 私が驚いたのはこれらの画像ではなく、紫禁城調査隊の中心人物・伊東忠太(この時彼は東京大学助教授・建築史家)のフィールドノートである。展示されていた約A6サイズのグリットが印刷されているノートに克明に描かれた建物のディテール、周りの地形などなど。 彼はその後、東京築地本願寺などを設計、その様式はアジア・西洋のハイブリットだ。その他の建築物も同様の様式を持っている。 話が<タージ・マハール>からそれたが、皇帝シャー・ジャハーンは<タージ・マハール>の横を流れる川の対岸に自分の墓廟を、白い<タージ・マハール>対し、黒い大理石で着手するが、息子のアウラングゼーブ帝によってアーグラ城に幽閉されて、彼の望みは叶わなかった。理由は財政が窮乏していたといわれるが真偽はわからない。 白い墓廟<タージ・マハール>と自分の黒い墓廟の間を大理石の橋(灰色?)で繋ぐことになっていたという、かなわぬことだが完成してほしかった。 全国で箱物、道路を造り続けて財政が窮乏し、人権を侵すような医療保険を行わなければならない日本は、まだ道を造り続けるという。その道もすぐに工事でデコボコになってしまう――単一民族による愚鈍な政策である。 |
|||||||||
|
|
|||||||||
|
<鎌倉四季_段葛・春/海・夏の夢/晩秋の北鎌倉/梅の香・冬>を お読みになりたい方はこの文をクリックしてください |
|||||||||